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川面美術研究所からのお知らせ

毎日新聞連載「心と技と」建造物装飾 川面美術研究所-4

毎日新聞連載「心と技と」 建造物装飾 川面美術研究所

 

文化財に絵描きの心を

 

 川面美術研究所(右京区鳴滝本町)の創設者、川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)が、建造物彩色の第一人者として国の選定保存技術者に認定されたのは1997(平成9)年である。建造物彩色とは、文化財建造物の柱や壁、天井、彫刻などに施された彩色を修理・復元する技術であり、川面が文化財にかかわるスタートになった壁画模写は含まれていない。

 川面と建造物彩色との出合い--。川面の二女で研究所代表の荒木かおり(48)によると、56(昭和31)年ごろ、平等院鳳凰堂の扉絵模写を手がけた際、府文化財保護課の技師、大森健二に、併せて翼廊(国宝)の柱の朱塗りを依頼されたのがきっかけという。
10円玉を見たらわかるように、鳳凰堂は中央の中堂から翼が生えたように左右に廊下が延びている。これが翼廊である。風雨にさらされるため、ほかと比べ色落ちが激しかった。

 本来、こうした朱塗りは専門の職人が行う。しかし、全体の塗り替えならまだしも、翼廊だけピカピカになったらおかしい。「画家の川面にやらせたら、周囲とのバランスを考えて古色っぽくできるんじゃないか」。大森は、そう考えたようだ。
「恐らく、これが文化財建造物の彩色に絵描きの心が持ち込まれた最初ではなかったでしょうか」
荒木は言う。

 従来、社寺の修理では、宮大工や建具大工、屋根職人、壁職人らに加えて、装飾部門を受け持つ飾り金具職人や金箔(ぱく)師、漆師らも参加。彩色には彩色職人がいた。いずれも職人であり、画業を生業にする者の領分ではなかった。
結果、社寺によっては、修理の際の都合で塗り変えられ、創建当初の色や模様とはかけ離れてしまうことが珍しくなかった。細かい模様の上に漆をべた塗りして図柄を消したり、さらに後年、その上に新たに模様を描いたり……。

 

 画家に繊細な塗り替えを頼んできたとはいえ、彩色のルールはまだ固まっていなかった。朱塗りを終えて、壁画の模写の世界に戻った川面が、建物彩色の仕事に再び駆り出されることはなく、府教育委員会に頼まれるのは、調査の範囲にとどまった。彩色部分について顔料は何か、何度塗り直されているか、元の図柄はどうであったか、などのデータをとるための出番だったのである。
府教委によれば、建造物彩色の重要性が言われるようになるのは昭和40年代に入ってから。さすがに文化財建造物では乱暴な塗り替えなどはなくなっていったが、調査して記録はするものの、色落ちしている部分にはく落止めをするかどうか、ぐらいが彩色修理の範囲だったという。
そして、68(昭和43)年。解体修理していた東山区・六波羅密寺本堂(重文)の向拝(こうはい)の彩色を復元するよう、川面は依頼される。これが建造物彩色の本格的な第一歩だった。
続いて翌69年には、八幡市の石清水八幡宮の本殿(重文)などの唐破風(からはふ)彫刻の復元彩色。さらには74年、二条城唐門(重文)の復元彩色。
「試行錯誤の連続だったみたいです。だって、復元彩色なんて、それまで誰もやったことがないんですから……。でも、父はいろいろと工夫したりすることが好きでしたから、苦労も楽しかったようですね」と、荒木は笑った。
(毎週木曜日掲載。次回は25日。文中敬称略)【池谷洋二】

 

選定保存技術
 1975年の文化財保護法改正に伴って新設された制度。文化財保護のために欠かせない技術、技能で、保存措置を講じる必要があるものを、文部科学大臣が選定保存技術とし、その保持者及び団体を認定している。「文化財保護関係の人間国宝」と呼ばれることも。選定数は04年10月現在で、建造物木工(宮大工)、木像彫刻修理、邦楽器糸製作など62件。

毎日新聞 平成19年1月18日掲載

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