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川面美術研究所からのお知らせ

毎日新聞連載「心と技と」建造物装飾 川面美術研究所-3

毎日新聞連載「心と技と」 建造物装飾 川面美術研究所

 

1日の模写は10㌢四方

 

川面美術研究所の創設者で、建造物彩色の選定保存技術保持者だった川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)がこの道に入るきっかけとなった奈良・法隆寺金堂壁画模写の話を続けたい。

名だたる画伯たちに交じって「壁のしみばかり写していた」という川面だが、二女で現在の研究所長、荒木かおり(48)によると、こんな方法だったらしい。

入江波光の下で京都班に入った川面は、壁画をコロタイプ印刷したものを下敷きに、模写をした。写すのに使ったのは薄い美濃紙。ロールに巻きついた状態での美濃紙を少し広げて下敷きの上に乗せ、右手に絵筆、左手でロール部分を持つ。

薄い紙越しに、下敷きに印刷された絵が透けて見えるが、輪郭ならともかく、細かい線やしみまではわからない。そこで、左手で紙を上げ下ろし、それを繰り返すことで目の残像を利用して、下とそっくりに描いていったという。1日に仕上がるのは、10㌢四方程度。聞いただけで、うんざりする作業だ。

模写には、大きく分けて3通りの方法がある。制作当初に帰って色・形を再現する「復元模写」、現在の姿をそのまま写す「現状模写」、そして、出来たてのピカピカでなく、一定の時代色をつけた「古色復元模写」である。法隆寺壁画で選択されたのは、現状模写。だから、しみの一つ、汚れの一つまで忠実に写し取る必要があった。

「法隆寺よりずっと後のことですが、薄暗いところで、ひたすらうつむいて作業していた父を覚えています。何時間たっても、全然進んでいない。小学生のころ、“働くお父さん”を描くという授業があったのですが、絵にならなくて……」

荒木の子供のころの記憶である。

 

こうして始まった我が国で初めての本格的な文化財模写事業は、突然、悲劇的な幕を下ろす。1949(昭和24)年1月26日早朝に起きた法隆寺金堂の火災、そして壁画の焼失である。これを機に翌年、文化財保護法が成立、1月26日は後に「文化財保護デー」になる。あまりにも有名な火災事件だが、出火原因は、模写にあたっていた画家たちが、保温用に使っていた電気ざぶとんのスイッチの切り忘れとされた。

京都に戻った川面は、義父、野村芳光の舞台美術の仕事を手伝うかたわら、当時の文部省に文化財の模写を志願。解体修理が進んでいた宇治・平等院鳳凰堂の中堂壁画模写を皮切りに、醍醐寺五重塔の初重(1層)壁画、奈良・室生寺金堂壁画、海住山寺五重塔内陣扉絵と、高名な寺院で次々と模写を手がけていく。

その心境について、川面は後年、毎日新聞の取材に対し、「私たち模写班の不始末で法隆寺金堂を燃やしてしまい、償いの気持ちもあって始めたのですが、自分の使命なような気がしてきて……。その時代の精神を伝える相手にいつもほれ込んでしまうんです」と語っている。

模写の仕事では、吉田友一、松元道夫、多田敬一、河津光俊ら法隆寺の仲間と一緒に参加した。法隆寺で超一流の画家の仕事を見、教えてもらったこと、文化財保護に情熱を持つ文部省の技官と知り合えたこと、そして、ともに技を競った仲間たち。

こうした経験や交流が、川面と文化財とのかかわりを深くさせ、もう一つのライフワークとなった建造物彩色の仕事にもつながっていった。

(毎週木曜日掲載。次回は18日。文中敬称略)【池谷洋二】

 

法隆寺壁画消失
焼け残ったのは、全部で12面の壁画のうち、既に解体を終えて保管されていた内陣の「飛天」図など一部。完成間近だった川面たちの模写図」8面と、全景の写真原版は残った。現在の法隆寺金堂に展示されている模写は、1967(昭和42)年、前田青邨、平山郁夫らが参加した新しい模写の分。区別するため、川面らの模写を「昭和模写(旧壁画模写」)」、後者を「再現模写(再編壁画)」と呼ぶことがある。

毎日新聞 平成19年1月11日掲載

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