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川面美術研究所からのお知らせ

毎日新聞連載「心と技と」建造物装飾 川面美術研究所-13

毎日新聞連載「心と技と」 建造物装飾 川面美術研究所

 

飽「色」時代 続く手探り

 

 紅葉の名所として知られる左京区の永観堂(禅林寺)。本尊の阿弥陀如来像(みかえり阿弥陀像。重文)を祭る阿弥陀堂では、この4月から彩色修理がスタートする。手がける川面美術研究所(右京区鳴滝本町)にとっても、創設者の川面稜一(一昨年1月、91歳で死去)不在で取り組む、初めての本格的な建造物彩色現場である。

 現在の阿弥陀堂は、慶長2(1597)年、大阪・四天王寺の曼荼羅(まんだら)堂として建立。慶長12年、永観堂に阿弥陀堂として移築された。その後何度も彩色修理が行われているが、修理の仕方がその都度バラバラだったため、老朽化したのを機に慶長12年当時の姿に統一することになったという。

 「移築の際、一部を改築しているので、彩色も手直ししているはず。それを含めると、5回ほど修理しています。できれば慶長2年と12年を区別、対比できたら面白いと思っているのですが……」

 総指揮をとる、川面の次女で研究所代表の荒木かおり(49)である。

 

 例えば、外柱。今はベンガラで赤く塗られているが、調査の結果、その下に黒い漆のベタ塗り層があり、さらにその下は、上部に巻き下げ文様、下部に波が描かれていた。

 創建当初に巻き下げと波、次の修理では細かい作業を避けて漆塗りに、さらにより安価なベンガラに、と変遷したように見えるが、外柱には、四天王寺から移した時に高さを変えたらしく、根元に継木がしてあった。

 「波の文様は継いだ方の新材にも描かれていましたが、文様自体は継いだようでなく、自然でした。ひょっとすると、波は最初からあったのではなく、継ぎ跡を隠すために移築段階で描かれたのかも知れません」

 当初は巻き下げ文様だけだった。なるほど、興味深い話である。

 

 驚いたのは、内装の4分の1ほどは手をつけないと聞いたことだ。本尊のみかえり阿弥陀像に向かって左奥の部分(北脇陣)は、現状のまま残すという。修理が終わると、室内の4分の3は絢爛(けんらん)豪華な慶長期の色彩世界を再現、残りは老朽化という、ちょっと不思議な空間になるのだ。

 「文化財として、現状変更をしない部分を残そうということなんですね。北脇陣は傷みが少なかったことに加え、参拝者は横を向いた阿弥陀さまのお顔を見るため、右の奥には行きますが、左側は比較的目に触れないということもあります」

 なるべく補彩で済ませすべてをピカピカにはしない、という前回掲載の西本願寺御影堂修理と発想は同じだが、やり方が違う。文化財保存の基本原則の反映ということは理解しても、素人目には、彩色修理のルールはまだ試行錯誤、発展途上段階にある、という感じがするのは否めない。

 その根底には、模写絵の時に荒木が言った「極彩色をそのまま再現したら、日本人の目には安っぽくみえる」ということもあるのだろう。文化財を彩る色と文様、そしてその保護・保存の問題。川面稜一が切り開き、育ててきた建造物彩色の世界は、今後どこへ向かうのだろうか。

 新しい研究所を率いる荒木が語る。

 「昔は庶民の生活には色彩が乏しく、寺など宗教の世界に色が満ちていた。まばゆい色彩の世界は、地味な日常に対する非日常空間だったわけです。今は逆で、市民生活に色彩があふれ、寺からは色が消えてしまった。色がない方が非日常で、貴重なのですね。そんな現代人に受け入れられる彩色とは何か。建造物装飾の心と技を、どうやって次世代につなぐか。それが私たちの使命だと思っているのです」

(文中敬称略)

連載「心と技と」は、春の紙面改革に伴い今回で終了することになりました。ご愛読ありがとうございました。
【池谷洋二】

 

みかえり阿弥陀像
 首を左後ろに向けた珍しい阿弥陀像。寺伝によると、永保2(1082)年、禅林寺中興の祖とされる七世法主、永観が阿弥陀像の周りを念仏しながら行道していると、突然、阿弥陀像が壇を降り、永観を先導して行道を始めた。驚いた永観が立ち止まると、阿弥陀像は振り返って「永観、遅し」と言った。以来、その姿を現代に伝えているという。

毎日新聞 平成19年3月29日掲載

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